とある日、南風原町立南風原文化センターへ。
中には、沖縄陸軍病院壕を再現したものがあり、忠魂碑、学童疎開、移民と戦争、県内の戦争遺跡、南風原平和の礎等を
中心に紹介しています。壕では、体験寝台や手術台、それに黄金森の壕の地形模型、また壕関係年表などがあり、
当時の様子がより分かりやすいようになっています。忠魂碑の模型。
日用品なども当時のままの姿で展示してあります。
また戦後史として庶民のたくましい暮らしや、さらには、映画やオモチャ、娯楽
当時のたばこやマンガなども紹介されています。
たくさんの当時の資料や写真があり、時間があっというまに過ぎてあらためて沖縄戦を考えました。
【 沖縄陸軍病院 】
沖縄陸軍病院(琉18803部隊)は1944(昭和19)年5月に熊本で
第32軍の陸軍病院として編成された。
6月から那覇市内で活動を始めたが、同年10月10日米軍の空襲
によって施設が焼失し、南風原国民学校校舎に移転した。
それ以降、第32軍野戦築城隊の指導のもとで、字喜屋武(黄金森)と
字兼城(現在の役場北側の丘)に約30の横穴壕が造られた。
米軍の艦砲射撃が始まった1945(昭和20)年3月下旬
陸軍病院は各壕へと移った。広池文吉病院長以下、
軍医、看護婦、衛生兵ら約350人に加えて、3月34日には
沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校(ひめゆり学徒)222人が
教師18人に引率され、看護補助要員として動員された。
4月1日の米軍上陸後、外傷患者の激増に対応する為、
外科を第一外科、内科を第二外科、伝染病科を第三外科へと改めた。
5月下旬、第32軍司令部は摩文仁(糸満市)へ撤退を決定し、
陸軍病院に撤退命令が出された。
その際、重症患者に青酸カリが配られ、自決の強要が行われた。
南風原町は1990(平成2)年戦争の悲惨さを伝える証として、
第一外科壕群・第二外科壕群を町の文化財に指定した。
南風原町立南風原文化センター 【南風原壕群20号案内パンフレット】より