『 喜屋武グスク 』は、別名『 喜屋武マーブ 』『 仲嶺マーブ 』または『 火打嶺(ひうちみね)』とも呼ばれる!?
言い伝えによると、初代:安慶名大川按司(あげなおおかわあじ)の四男:喜屋武按司(きゃんあじ)が築城し、その子孫三代の居城で、その後廃城になったと言われています。
また、勝連グスクの阿麻和利(あまわり)を討伐した鬼大城(うにうふぐしく)が幼少時代を過ごした城とも言われています。
喜屋武グスクは、むかし火立(ひーたち)があったところでもあります。
首里王府は、県内各地の要所に遠見番を置き海上を見張らせ、御冠船(おかんせん)、進貢船(しんこうせん)、薩摩船(さつません)の入港を首里王府に通報する烽火台を設置した。
うるま市では、宮城島、平安座島、平敷屋、喜屋武グスクにあり、これにより、本グスクは『 火打ち城 』とも呼ばれています。
公園内には、喜屋武按司の墓もあり見学する事に…
『 喜屋武按司の墓 』
現在の『 喜屋武城跡 』は、喜屋武マーブ公園整備事業により、広場、バスケットコート、テニスコート等の設置、園路整備、遊具施設等の整備、展望台が設置されています。
『 喜屋武マーブ公園 』として市民の憩いの場となっています。