1453年に【 第一尚氏王統 】第五代琉球国王『 尚金福王 』の死後、王位をめぐって二人の争いが!
尚金福王の息子:尚志魯(しょうしろ)VS 尚巴志王の六男:尚布里(しょうふり)の乱!
この乱で当時の首里城は焼失し、志魯(しろ)・布里(ふり)の双方が傷付き薨(たお)れた。
城が焼失した痕跡は正殿跡の発掘調査からも確認されている。
そのため王位は『 第三代琉球国王 尚忠王 』・『 第五代琉球国王 尚金福王 』・『尚布里』らの弟にあたる『 尚泰久 』が継ぐこととなった。ラッキーって感じ♪
尚巴志王の七男『 尚泰久王 』で40歳で即位。(在位1454年 ~ 1460年)
第六代琉球国王『 尚泰久王 』は護佐丸の娘を正妃とし、長男:安次富加那巴志(あしとみかなはし)、次男:美津波多武喜(みつばたぶき)、そして長女が百十踏揚(ももとふみあがり)です。
百十踏揚(ももとふみあがり)は勝連の按司『 阿麻和利 』へ嫁ぎ、その後!阿麻和利を仕留めた『 鬼大城賢雄 』の妻となりますwww!
阿麻和利と護佐丸の乱(1458年)を鎮圧したことが業績に挙げられる(複雑な関係だな~!?)
また、初めて琉球に臨済宗を伝えた京都南禅寺出身の僧・芥隠承琥らに深く帰依して多くの仏寺を建立した。
梵鐘の鋳造にも熱心で、1458年には万国津梁の鐘を造らせて首里城正殿に懸けさせた。
『 尚泰久王 』1460年6月23日 死亡