『 阿麻和利之墓 』読谷村楚辺
ここが『 阿麻和利之墓 』で、地元では『 屋良墓 』と呼んでいるらしい。
阿麻和利は、沖縄本島中部の北谷(ちゃたん)間切の屋良村(現:嘉手納町屋良)出身だという。
一説によると『阿麻和利』は、幼名は『加那』と言われ、身体が弱く、山に捨てられてしまい、山で一人で生きていくための、知恵と力を付けていき、勝連に辿り着いた時には、人々に漁網の作り方を教えたり、自ら漁で獲った魚を分け与えたりし、多くの村人から愛されていたと思われる逸話が残っている。
阿麻和利は自分の田畑の耕作はほったらかしにしでも、他人の農耕の手助けには精を出したと云い、蜘蛛の巣から思いついて漁網を考案し、漁民からの人望も得たという。
また大和(日本)や東アジアとの貿易を進めていき、大陸の技術を積極的に取り入れ、勝連に繁栄をもたらしたんだそうです!
『 勝連グスク 』の城主である『 阿麻和利 』のお墓が、なぜ読谷村のこの地にあるのか?…
阿麻和利は首里王府によって勝連城を追われ、生まれ故郷の屋良村に(現:嘉手納町屋良)逃げてきます。
さらに、屋良村からも逃げて、読谷村の楚辺まで逃げてそこで討たれ、亡骸は岩陰に捨てられたという説!?
勝連グスク内で鬼大城に首を討ち取られたという説があるが、どちらがどうかは定かではない???
読谷村といえば、伊良皆(イラミナ)には、琉球を統一した英雄、尚巴志(ショウハシ)のお墓もある。
阿麻和利も逆臣とされたため、やはりこの読谷村で、ひっそりと葬られたのだろうか?
英雄とされているのだから、それにふさわしい案内板などがあってもいいのでは…?