護佐丸は山田グスク(恩納村山田)で生まれ、山田按司を継ぎ、第一尚氏王統時代の英雄として知られる尚巴志とともに、三山統一を成し遂げました。
※『 按司 』とは領主・支配者のことです。
その功績が認められ、読谷山(現:読谷村)の地を与えられた彼は座喜味に城を築いて移り、読谷山按司として尚巴志王の琉球統一事業に尽力しました。
【 座喜味城 】

しかし、その頃勢力を伸ばしてきた勝連城主の阿麻和利を牽制するため、尚巴志は 1430年中城の地領を護佐丸に与え、中城按司となります。
【 中城城 】

そして1458年、第一尚氏王統第6代王・尚泰久の時に阿麻和利に滅ぼされました。
伝承では、天下を狙う阿麻和利が、首里と勝連の間に立ちふさがる中城按司・護佐丸を除くため、護佐丸が謀反を企んでいると尚泰久王に讒言(ざんげん)をし、王はこの報告を信じて、阿麻和利に護佐丸討伐を命じました。
護佐丸は首里王府軍の旗を掲げて攻めてきた阿麻和利軍を見て謀りごとと見抜きつつも、王への忠誠心から『 王府軍には逆らえぬ 』と、幼児だった三男を乳母に託して落ちのびさせ、妻子もろとも自害したそうです。
その後、阿麻和利も讒言(ざんげん)がばれて王府軍によって滅ぼされたと伝えられているが…❓
【護佐丸之墓】

この出来事は『 護佐丸・阿麻和利の乱 』と呼ばれ、沖縄独特の芸能である『 組踊 』などの題材にもなっています。
もっとも、『 忠臣・護佐丸、逆賊・阿麻和利 』という構図は首里王府に基づく見方で、阿麻和利こそ農民たちの英雄だったとする説もあり、琉球史最大の謎に包まれた事件です。
『 中城城跡 』を見学したあとは、『 護佐丸公之墓 』を訪ねてみてはいかがですか❓