守礼門(しゅれいもん)
尚清王時代(1527年~1555年)に創建。
扁額の『守禮之邦』とは、『琉球は礼節を重んずる国である』という意味です。
世界遺産『 園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)』
国王が出御の時、道中の安泰をこの石門前で祈願しました。
歓会門(かんかいもん)
首里城の正門。
中国皇帝の使者『冊封使(さっぽうし)』など、訪れる人への歓迎の意を込めて名前がつけられました。
龍樋(りゅうひ)
瑞泉門の手前にあり、龍の口から湧き水が湧き出していることから、その名がつけられました。
王宮の大切な飲料水でした。
瑞泉門(ずいせんもん)
瑞泉とは、『立派なめでたい泉』という意味です。
門の前にある湧き水『龍樋(りゅうひ)』にちなんで名付けられました。
漏刻門(ろうこくもん)
櫓(やぐら)の中の水時計で時刻を計ったことで名付けられた門。
別名『かご居(い)せ御門(ごじょう)』。
身分の高い役人も国王に敬意を表してここで籠(かご)を降りました。
日影台(にちえいだい)
1739年、従来の漏刻(水時計)が不完全であるとして設置され、この時間制度は1879年の廃藩置県まで続いていました。
広福門(こうふくもん)
東側には戸籍の管理をする『大与座(おおくみざ)』、西側には寺や神社を管理する『寺社座(じしゃざ)』がありました。
首里森御嶽(すいむいうたき)
城内にある礼拝所の一つで、琉球最古の歌謡集『おもろさうし(おもろそうし)』に数多く詠まれています。
神話には『神が作られた聖地である』と記されています。
奉神門(ほうしんもん)
『御庭(うなー)』へ続く最後の門。
3つの入口があり、中央の門は国王や身分の高い人だけが通れる門でした。
開門を告げる朝の儀式『御開門式(うけーじょー)』を見ることができます。
世界遺産『 遺構(いこう) 』
【首里城正殿の基壇遺構について❓】
●第Ⅱ期基壇
東側の壁沿いの石積みは、15世紀(第一尚氏時代)の基壇(Ⅱ期)で、当時発生したと伝わる火災の痕跡も確認されています。
●第Ⅲ基基壇
真ん中の石積みは、その次に作られた基壇(Ⅲ期)と考えられており、形状は異なりますが、平成に復元された18世紀から戦前までの正殿と同じように、中央に階段を備えていたようです。
案内板より
白銀門(はくぎんもん)
東のアザナの下方にある内郭石積に接して設けられた門で、別名『しろがね御門(うじょう)』とも称されています。(創建年代は不明。)
白銀門と東のアザナの間には寝廟殿(しんぴょうでん)があり、白銀門は寝廟殿へ詣でる国王と女官専用の門であると考えられています。
他の人々は脇門をくぐったと伝えられています。
この門は城内の他の石門と様式が異なり、石造形式の門となっています。
復元整備にあたっては古写真をもとに石組を忠実に復元しています。
案内板より
東のアザナ(あがりのあざな)
城の東側に築かれた物見台で、首里城一帯や城下が見渡せる絶景スポットです💛
西のアザナ(いりのあざな)【展望台】
城郭の西側に作られた展望台で、ここからは那覇港の様子を望むことができました。
首里城内をはじめ、那覇市街地や慶良間諸島が一望できる絶景スポットです💛
木曳門(こびきもん)
王国時代、首里城の建物の建設や修理、石積修復工事の資材搬入時に使用され、普段は石を詰めて閉じられていました。
首里杜館前売店(すいむいかんまえばいてん)
首里杜館(すいむいかん)
レストラン首里杜(すいむい)・カフェ龍樋(りゅうひ)・ショップ紅型B1・ショップ紅型・トイレ
久慶門(きゅうけいもん)
円覚寺・総門
弁財天堂
第32軍司令部壕
第32軍の創設と司令部壕の構築
1944(昭和19)年3月、南西諸島の防衛を目的に、第32軍が創設されました。
同年12月、司令部壕の構築がはじめられ、沖縄師範学校など多くの学徒や地域住民が動員されました。
1945(昭和20)年3月、空襲が激しくなると、第32軍司令部は地下壕へ移動し、米軍との決戦にそなえました。
壕内は5つの坑道で結ばれていましたが、現在、坑口は塞がれ、中に入ることはできません。
案内板より
龍潭(りゅうたん)
15世紀はじめの尚巴志(しょうはし)王代(1422~39年)につくられた公園。
龍頭形に彫られた大池は、周辺約416m、面積8400平方メートルになる。
池の周りには、もと東側に松崎馬場があり、馬場に面して国学(こくがく)と孔子廟(こうしびょう)があった。
池の東南端にある龍淵橋をはさんで円鑑池(えんかんち)とハンタン山があり、さらに首里城がそびえている。
池の南側の森の頂には、園比屋武御嶽(そのひやんウタキ)がある。
世界遺産(国宝) 玉陵
玉陵は、1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となりました。
墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋となっています。
全体のつくりは、当時の板葺き屋根の宮殿を表した石造建造物になっています。
墓域は2.442平方メートル。
沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年から3年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、往時の姿を取り戻して今日に至っています。