『 今帰仁城 (※なきじんぐすく)』、別名:北山城(ほくざんぐすく)は、沖縄県国頭郡今帰仁村に位置する城跡である。
14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城であった。
【 概 要 】
城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多く出土し、往時の繁栄をうかがわせる。
北山は尚巴志に1416年(応永23年・永楽14年。)
1422年(応永29年・永楽20年)説もある)に滅ぼされるが、北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、北山監守が派遣された。
1609年の薩摩藩による琉球侵略の際には、その攻撃の第一目標となった。 * *
現在も石垣などの遺構の整備が進み、今帰仁城跡として1972年(昭和47年)5月15日に国の史跡に『今帰仁城跡』として指定される。
門から城の中心部へと向かう階段(戦後に造られたもの)の左右にはカンヒザクラの並木があり、毎年1月末 ~ 2月始めに開花する🌸
本部町の八重岳などと並び、桜の名所として知られている。
城内には志慶真乙樽歌碑や山北今帰仁城監守来歴碑記などの碑もある。 * *
2000年(平成12年)11月に首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産【文化遺産】に登録された。
※登録名称は『 今帰仁城跡 』 *
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(98番)に選定された。 *
2010年(平成22年)2月22日に国の史跡地域が追加され、史跡名称が今帰仁城跡 附シイナグスク跡へ改められた。
シイナグスク跡
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『 外郭 』
高さは2m前後と比較的低い石垣が延長数百メートル蛇行して続いています。
『 古宇利殿内(ふいどぅんち)』
沖縄の方言で古宇利(こうり)のことを『ふい』と言うことから『フイ殿内』と呼ばれています。
祠は古宇利島のある北東の方位を向いていて、今帰仁村の唯一の離島である古宇利島の人々が旧8月に遥拝します。
また、今泊の神行事の時には、今帰仁ノロが拝みます。
案内板より
『 平郎門(へいろうもん) 』
平郎門の名称は、1713年に編集された『琉球国由来記』に『北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス』と記載され登場します。
1742年に描かれた『今帰仁旧城図』の資料にはこの場所が『本門』として記されています。
2つの史料から、今帰仁城の重要な門がこの門で、平郎門と呼ばれていたことが分かります。
しかし、城としての機能を終え300年以上経った1900年代初め頃には、即に門は大きく崩落していたことが分かっています。
案内板より
『 大隅(うーしみ)の城壁 』
今帰仁城跡の城壁は、ねずみ色の古期石灰岩で堅牢に築かれています。
なだらかな斜面地を利用して機重にも連鎖的に連なっています。
城壁の外側に一定の間隔をあけて突出部を築くことで、城壁にせまる敵を横、あるいは斜めから攻撃できるように工夫された造りになっています。
さらに、屏風型に波打つ様は沖縄の古謡『おもろさうし』に『もゝまかり、つみ、あけて』とあり、今帰仁城跡の城壁を百典がりに積み上げてと謡い、蛇行する石積みの様子を伝えています。
案内板より
『 カーザフ 』
カーは川や湧泉を、ザフは迫で谷間を意味します。
谷間は自然の石が露頭して独特の景観をつくっています。
『 旧道 』
平郎門から直線的に伸びる石階段は、1960年代に整備された階段です。
本来の登城道は、平郎門から城内へ向かって石階段の右手側にあります。
1980年の発掘調査によって石敷きの小道が発見されています。
旧道は、大きな岩盤の谷間をりようして、道幅を狭く造り、敵兵が攻め入っても大勢の兵隊が上の郭まで一気に入れないように工夫された造りになっています。
案内板より
『 大庭(ウーミャ)』
大庭(ウーミャ)を取り囲むように正殿(主郭)、北殿、南殿の建物が配置されていたと考えられ、行事等に利用された重要な広場です。
『 志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の歌碑 』
今帰仁の城 しもなりの九年母(くにぶ)
志慶真乙樽が ぬきゃいはきゃい
大意:今帰仁の南にある志慶真ムラという集落に『 乙樽(うとぅだる) 』という美女がいました。
黒髪が美しい乙女の樽は国中に広がり『 今帰仁御神 』と呼ばれ時の山北王も側室として仕えさせました。
なに不自由なく暮らす幸福な毎日を過ごしたが、高齢の王には長い間後継ぎが無く、王妃も乙樽も世継ぎを授かることばかりを祈っていました。
やがて王妃がこを授かり、そのことを季節はずれの蜜柑が実ったことに例え、子供のはしゃぐ声に満ちた平和な様子を謡っています。
案内板より
『 カラウカー 』
常時水をたたえている場所で、かつて女官たちが髪を洗ったり、水量で吉区を占ったりした場所と伝えられています。
旧暦7月盆明けに行われる今泊区の大折目の際には、今帰仁ノロ率いる神人たちが巡拝する場所となっていました。
案内板より
『 ソイツギ(城内下之御嶽)』
今帰仁城跡内には御嶽のイベ(最も聖なる場所)が2つあります。
大庭(ウーミャ)の北西にあるソイツギは、『琉球国由来記』(1713年)に『城内下之嶽』、神名『ソイツギノイシズ御イベ』と記され、旧暦八月のグスクウイミという祭祀の時、今帰仁ノロが五穀豊穣を祈願します。
御内原にあるテンチジアマチジ『城内上之御嶽』や神ハサギ跡と共に祭祀場として拝まれます。
案内板より
『 御内原(うーちばる)』
北殿跡の北側にある一段高いところを御内原(うーちばる)と呼んでいます。
この場所は伝説では女官部屋があったと伝えられており、城内で最も重要な御嶽(イベ)があります。
特に御内原の北端からの眺望は、城内でも最も開けていて今帰仁城跡の城壁のほぼ全てを望むことができます。
国頭の山並みや離島の伊平屋・伊是名島を眺めることも出来ます。
特に晴れた日には、沖縄本島北端の辺戸岬の先22km洋上にある与論島(鹿児島県大島郡)を見ることが出来ます。
案内板より
『 テンチジアマチジ(城内上の御嶽)』
御嶽とは、琉球固有の祭祀施設、琉球の信仰における聖地の総称で、神が存在、あるいは来訪する場所です。
テンチジアマチジは御内原(うーちばる)の南東側、低い石垣で囲まれる御嶽です。
沖縄の古謡『おもるさうし』では『今帰仁のカナヒヤブ』と謡われ、今帰仁グスクの守護神として崇められる最も神聖な拝所です。
俗にテンチジアマチジと呼ばれ、昔は御内原(うーちばる)とこの区域は男子禁制で、城内の女官によって子孫繁栄、国家安泰、五穀豊穣を祈願したと伝えられています。
案内板より
『 今帰仁里主所火の神(なきじんさとぬしどころひのかみ)』
この祠は『今帰仁里主所火の神』と呼ばれ、第二尚氏時代の北山監守一族の火の神が祀られています。
北山監守は1665年に首里に引き揚げますが、かつての根所(旧宅地)の火の神として崇められてきました。
旧暦八月十日には今帰仁ノロ以下の神人が城ウイミの祭祀を現在も行っています。
この火の神の祠は戦後に改築したもので城跡の整備事業に伴い現在地に移されました。
祠の中には香炉と火の神を象徴する石が置かれており、今でも門中の行事である今帰仁上りの重要な拝所として参詣者が絶えません。
案内板より
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『 主郭(俗称本丸)』
発掘調査によって築城から廃城までの時期変遷することができました。
城内で最も中心的な建物があった場所です。
『 志慶真門郭(しげまじょうかく)』
この郭は志慶真門郭と呼ばれているところで、城内で最も東に位置する郭です。
志慶真門郭は昭和55年度~57年度に発掘調査が実施され、その結果、志慶真門郭と大庭(ウーミャ)との通路石敷が確認されています。
郭内の当初の地形は穏やかな傾斜地で、宅地の造成工事により階段を設け、建物の建立がなされています。
建物は約6m×6mあるいは 4m×5m程度の規模で、中に炉跡が見つかっています。
瓦が出土しないことから、茅か板で屋根を葺いた掘立柱建物であったと考えられています。
また、建物間を結ぶ石敷道や石段なども検出されました。
それらの遺構は修景整備がなされています。
出土品には、武貝類・陶磁器・装飾品・子供用遊具などがあり、これらの出土遺物により『家族単位』の生活が営まれていたことが考えられます。
石垣は地山を削り、自然の岩を利用して積み上げる工夫がなされています。
なお、郭の南側にはかつて志慶真門があったことも明らかになっています。
案内板より
【ご案内】
時間:今帰仁城跡・今帰仁村歴史文化センター(※両施設統一チケットです。)
●通常時期(1月~4月、9月~12月)AM8時~ PM6時(最終入場 PM5時30分)
●夏期延長期間(5月~ 8月)AM8時~ PM7時(最終入場 PM6時30分)
年中無休
駐車場 無料(約320台収容)
【観覧料】
大 人【個人 400円】【団体(10名以上)320円】
小中高生【個人 300円】【団体(10名以上)240円】
小学生未満【個人 無料】【団体 無料】
◆観覧料は今帰仁城跡と歴史文化センターの共通券となりました。歴史文化センターのみ利用の場合は 150円となります。
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