海の楽園へ那覇から船で約35分!
渡嘉敷島には空港がありません。
渡嘉敷島に行くには、那覇市の泊港から『フェリーとかしき(450人)』、または高速船の『マリンライナーとかしき(180人)』があります。
高速船は乗船料が高くなりますが、約35分で渡嘉敷港に着きます『 フェリーとかしきは約70分 』。
2014年3月5日、『 サンゴの日 』
沖縄県の慶良間諸島が、31番目の国立公園として指定されました。
多彩なサンゴ礁、ザトウクジラの繁殖海域、ケラマブルーと呼ばれる透明度の高い海が広がります💛
渡嘉敷島の見どころ探し (^^♪
『 根元家の石垣 』村指定有形文化財
字渡嘉敷45番地の屋号『 根元 』家の石垣は、渡嘉敷村に残る貴重な文化遺産である。
当家は、琉球王朝時代にこの島の男たちが水主(唐や薩摩へ行く船の乗組員)として唐船(進貢船・接船)や(薩摩へ行く御用船)で活躍した頃に繁栄したと伝えられている。
屋敷を囲む石垣や、内にあるヒンプンはどれも精巧に切り取られた石灰岩を正確に積み上げられており、現在のような道具もなかったであろう時代の職人技のすばらしさをかいま見ることができる立派な石垣である。
この石垣は、渡唐船の船頭役を勤めた当家の主が『唐儲け』により建設したといわれており、往時の財力がうかがわれる。
さった第二時世界大戦において東側の一部が破壊されたが、平成九年三月に修復した。
渡嘉敷村教育委員会より
『 旧日本軍特攻定秘匿壕 』村指定戦争遺跡
この洞窟は、沖縄戦における旧日本軍『 特攻艇 』の秘匿壕で、黒色千枚岩の堅い岩石をくりぬいて構築されている。
壕の掘削には主に朝鮮人軍夫等があたり、島の女子青年も献身的に協力をしたと伝えられている。
格納されていた特攻艇は『 マルレ 』と呼ばれ、ベニア板製で船幅1.8米、艇長5.6米、重量1,200kgの半滑走型ボートで120kgの爆雷2個を登載し、米軍艦艇を特攻攻撃するための秘密兵器であった。
当時、渡嘉敷島には赤松嘉次大尉率いる『 海上艇進戦隊第三戦隊(特攻艇100隻、人員540名余)』が配備されていた。
渡嘉敷村教育委員会より
『 照山園地遊歩道(北口)→ 照山展望台まで400m 』絶景スポット💛
照山展望台から見た『 とかしくビーチ 』
照山展望台から見た『 阿波連ビーチ 』
『 戦跡碑 』
戦跡碑碑文
ここに記すのは、昭和20年(1945年)この島に於いて戦われた激しい戦闘と、島民の死の歴史である。
大東亜戦争の最後の年の3月23日より、この渡嘉敷島は、米軍機の執拗な空爆と、機動部隊艦艇からの艦砲射撃にさらされた。
山は燃え続け、煙は島を包んだ。
当時島にあったベニヤ板張りの船を利用した、夜間攻撃用の特攻船艇部隊は、出撃不可能となり、艇を自らの手によって自沈するようにとの命令をうけた。
こうして、当時、島にあった海上艇進三戦隊、同基地隊などの将兵315名は、僅かな火器を持っただけで、島の守備隊とならざるを得なかった。
3月27日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所に集結したが、翌28日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。
一家は或いは、車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。
そこにあるのは愛であった。
この日の前後に394人の島民の命が失われた。
その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。
人々はトカゲ、ネズミ、ソテツの幹までを食した。
死期が近づくと人々の衣服の縫い目にたかっていたシラミはいなくなり、まだ辛うじて呼吸を続けている人の目に、早くもハエが卵を生みつけた。
315名の将兵のうち18名は栄養失調のために死亡し、52名は、米軍の攻撃により戦死した。
昭和20年8月23日、軍は命令により降伏した。
『 8月20日、第一中隊前進陣地ニ於テ、各隊兵器ヲ集積シ、遥カ東方皇居ヲ拝シ兵器訣別 式ヲ行ウ。太陽ハ輝キ、青イ空、青イ海、周囲ノ海上ニハ数百ノ敵艦艇ガ静カニ遊戈或イハ碇泊中ナリ、唯、茫然、戦ヒ既ニ終ル 』 (陣中日誌より)昭和54年3月 曾野 綾子選
渡嘉敷村教育委員会より
『 クバンダキ 』
『 阿波連ビーチ 』
阿波連ビーチ近く🅿FREEパーキング
『 阿波連集落 』
『 阿波連園地展望台(第一展望台)』🅿→ 300m
『 裏ヶ丘展望台(第二展望台)』🅿→ 190m
『 見花原遊歩道 』
【 見どころ 】
白い砂岩の歩道と緑色の絨毯のように広がるリュウキュウマツ
眼下に広がる美しいケラマブルーの海 💛
『 アラン展望台 』
『 アリラン慰霊のモニュメント 』
『 港の見える丘展望台 』
港の見える丘展望台から見た『 渡嘉敷港 』
『 渡嘉敷集落 』
『 ウニギラマ伝説 うふなー橋 』
昔、琉球王府に仕えていた人で、身体は大きいが心の優しい、力持ちの大男が渡嘉敷にやって来て住み、鬼慶良間と呼ばれ、村の人たちのために道路を修復したり、台風などで農作物が不足になるとソテツを植えて、飢えから村人を救い、いろいろ役に立つことをしていたそうです。
渡嘉敷集落から阿波連集落へ行く途中の水田地帯に『うふなー橋』があり、大雨の時など、よく流されていました。
そこで鬼慶良間が木の橋を架けました。
するとなにかと気にいらない阿波連弁慶が来て、踏みつぶすのでした。
架けると、また来ては壊しました。
村人は困ってしまいました。
そこで鬼慶良間は、大きな石を肩に担ぎ、もう一つを脇に抱えて運んできて石橋を架けたそうです。
すると阿波連弁慶はその橋を踏み壊すことができなくなりました。
また、鬼慶良間は自分が世話になった家の、お墓を立てる途中で亡くなったそうですが、死ぬ前に、『私はもうこの病から逃れることができないから、もし私が死んだあとに、あなた方がこの石をあげきれない時は、「ウニギラマヒャーヌエイ」とかけ声にあだ名お言えばあがるよ』と言って亡くなったそうです。
そしてこの石をあげるときに、そのかけ声をしてあげたそうです。
そうすると、大きな墓石は綺麗におさまったそうです。
その後、鬼慶良間は渡嘉敷の世主加那志と崇められ、たーちゅう墓の隣のお宮に祀られております。
とかしきの民話より
『 大谷辻歌碑 』