長嶺グスク
長嶺グスクは、字嘉数と字長堂の境に位置し、標高98mの丘陵上に形成されたグスクである。
豊見城村史(1964年刊)によれば、長嶺按司の居城として南山の第一線として備えたとあり、グスクの頂上部付近を『ウフヤックヮ(物見)』、その東側がデーグスクと称され、グスクの台所があったところだと伝えられている。
そのほか、グスク内には『琉球国由来記(1713年)』に記載された『長嶺之殿』や『按司墓』などがある。
グスクの石積みはこれまで確認されてないが、伝承として真玉橋の石橋に使用されたという話が残されている。
グスク一帯からは、グスク系土器、鉄製の矢じり、中国製の青磁、白磁等が出土している。
また、沖縄では産出されない滑石を混入した土器が出土していることから、九州との交流が直接、間接的に存在していた可能性がうかがえる。
仲間按司との紛争では、長嶺グスク城下での戦いに敗れ、馬で敗走した長嶺按司がグスク内の井戸に馬もろとも身を投げ自害したように見せかけ、その後落ち延びたとの伝説が残されており、南風原町津嘉山では長嶺按司の霊を慰めるため長嶺グスクを遥拝するアミシの御願の由来ともなっている。
長嶺グスクの成立および活動時期は14~15世紀に位置づけられるものと推測される。
長嶺グスクに関連する伝承としては他にも、尚金福王(1450~53年)の時代に長嶺按司陵正という人が、中国に渡って砂糖製造法を習い受け、琉球に帰国後あまねく周辺に製糖を教え広めた、との砂糖製造の始まりに関する伝承が残されている。
案内板より