前川樋川と前川民間防空壕 【南城市玉城】
琉球王府の史書である『 球陽 』(1745年)によると、前川区は 1736年に糸数グスク南側の麓から現在地に移動している。
この前川樋川(マエカワヒージャー)も当時の絵図(琉球国惣絵図・1750年頃)にも記載されていることから、当時から住民の生活用水として利用していたと思われる。

急勾配の石階段は水運びが不便であったため、1932年に南側へ緩やかな道路を造り、水運びが楽になった。
当初、樋川(ヒージャー)は簡易な水溜め程度の施設だったが、1936年に現在の粟石製貯水タンクと女性用の水浴場を建造して、日本本土復帰前(昭和40年代)まで貴重な水源として使われてきた。
同樋川を中心とした崖の中腹には、岩盤を掘り込んで築造された民間防空壕が40ヵ所、並んで存在している。
この民間防空壕は1944年10月10日の南西諸島大空襲(那覇市は 9割の家屋が焼失した。)後、米軍の沖縄上陸が濃厚となったため、字民が2・3世帯ずつ一組になり避難壕として建設したものである。
壕入口の多くはしゃがんで通れるくらいの高さで、広さは約4㎡。
隣り合う壕が内部で連結するという構造になっている。
字前川近くに米軍が進攻してきた際には、多くの住民がこの壕や南部具志頭方面に避難した。
なお、この壕では4ヵ所で集団死が起こっており、約20人余が死亡している。
旧玉城村内には自然の洞穴を利用した防空壕は多いが、このようにまとまって掘られた民間防空壕はここだけである。
案内板より